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2005|04|05|
2007|07|

Mon, Apr 11, 2005

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 1937年12月から1938年3月にかけて、近代において最悪な大虐殺が行われた。

日本の兵士達が南京の街を攻略し、殺人、レイプおよび略奪の作戦に乗りだしたのだ。



 当時のその街の歴史家や慈善組織による見積もりに基づくと、25万から30万の人々が殺され、多くは女性や子供だった。


 そこに居た西欧人が言うには、レイプされた女性の数は2万人にもなり、市民が切り刻まれて殺されたという報告は広範囲に及んだという。


 未だ日本の公人および歴史家らはそのような規模の大虐殺があったことを否定している。


 彼らは殺害やレイプが行われたとは認めるものの、報じられているよりもっと小規模であるという。

そしていかなるケースにおいても、彼らはそれらは戦時中に起こった事だと主張する。



支那事変

 1931年。日本は、日本の利権で運用していた路線の爆破事件に追従して中国の満州に侵攻した。


 中国軍はそれらの敵と交戦せず、日本は最終的に、強大な包囲で中国領土を支配することになる。


 それまでの何年かを見ると、日本は権力を強化しており、そのあいだ中国は共産党と国民党のナショナリストとの間の紛争にみまわれていた。その後者は蒋介石総統によって率いられ、そしてその首都は南京にあった。


 多くの日本人、とりわけ軍隊要員の何人かが勢力の増大に駆られ、1937年7月、中国と日本兵らの間の小競り合いが全面戦争へとエスカレートした。


 ふたたび日本は最初の成功を得たのだが、日本が上海を突破し迅速に南京へ移動するまでは、中国の防衛が成功していた時期があった。


 蒋介石軍はすでに街を去っており、日本軍勢は難なくそこを占領できたのである。



近代におけるとてつもない残虐行為

 その当時、日本軍に野蛮という評判はなかった。


 1904~5年の日露戦争で、日本の兵士達は彼らが破った敵に対して、素晴らしい礼儀正さで振る舞った。しかし、こちらは非常に異なる。


 日本の新聞は、将校らのあいだに、特に中国人を殺す競争があったと報じている。



おそらく、今日、この街で行われてこなかった犯罪はない

ミニー・ヴォートリン
アメリカ人女性 南京にて

 一人の日本人新聞記者は、焼かれた兵士達が積まれているのを見た揚子江の土手で、処刑を受けるため列を成している中国人らを見た。


 その時の写真は、今、街の展示会の一部にあり、そこには、日本人兵士が笑みを浮かべ、死体の山の中に立っているのが写し出されている。


 ティルマン・ダーディンは、立ち退きを強制される前、大虐殺の早期の段階においてニューヨークタイムズでレポートしている。

彼はこう書いている。「私は29歳で、それは私にとってニューヨークタイムズでの初めての大きな記事だった。さて、私は川縁に車を走らせていた。そして門に到着し、私はちょうどそこに積み上がっていた体の塊に乗り上げた」。


 「車はすでにそれらの死体を乗り越えてしまっていた。そして川辺での光景・・・その時私は発車するのを待った。たばこを吸い、談話しながら、中国人捕虜の集団を虐殺しているのを監督する日本人将校達の一団があったのだ」


 「その一団のうち15人くらいが、行進しながらマシンガンで彼らを撃っていた」


 そこを離れるまでに彼は10分間に200人が処刑されるのを見ており、見たところ日本軍の観衆はとても楽しんでいたという。


 彼はレイプ・オブ・ナンキンは“近代におけるとてつもない残虐行為”と結論付けている。



記憶は消せない

 キリスト教伝道師のジョン・マギーは、日本兵は“彼らが見つけた全ての囚人だけでなく、膨大な数の一般市民も全年齢に渡り”殺した、と概説する。


 彼曰く、「彼らの多くは、通りでウサギでも狩るかの如く打ち落としていた」。


 彼が説明した殺人とレイプの一週間の後、マギー牧師は他の西欧人らと合流し、国際安全区*1の設置を試みた。


 助けになったまた別の人は、“アンネ・フランク”のそれに例えられている日記を保存していたアメリカ人女性、ミニー・ヴォートリンであった。


 彼女の12月16日の日記を読む。「おそらく、今日、この街で行われてこなかった犯罪はない。(彼女が働いていた)語学学校からは昨夜13人の少女が連行され、そして今日、昨晩彼らの家に連れて行かれた少女達のたくさんの心引き裂かれるような話を聞いた。 ―それにしても、少女らのうち一人はまだ12歳だ」。


 後に彼女はこう書いている。「一体何千人が銃や銃剣で刈り落とされるのか、我々はおそらく決して知ることはないだろう。彼らが彼らを燃やすとき、その体にたくさんの容器から油が撒かれる」。


 「炭となった体は、そうしたいくつかの悲劇を物語る。これら10日間の出来事は、どんどんおぼろげになっていく。しかし、生涯、私の記憶と、この間南京にいた者達の記憶から消えはしないだろうという確信がある」


 ミニー・ヴォートリンは1940年に神経衰弱にみまわれ、アメリカに戻った。彼女は1941年に自殺している。


 さらにぞっとしたのは、地元ナチス党員の長だったドイツ人、ジョン・ラーベの話を聞いたときである。


 彼は国際安全区のリーダーになり、彼が見た事を記録した。そのうちいくつかはフィルムに収めたが、これは彼がドイツに戻る前にナチスによって破棄された。


 彼はレイプやその他起こった蛮行について、推定が保障される範囲内で書いている。



自白と否認

 第2次大戦が終結した後、南京に住む日本兵の一人が彼が見てきた事について話している。


 彼、東史郎は、ひとつのエピソードを思い起こす。「そこにはだいたい37人ほどの老人が・・・老人と子供が居た。私たちは彼らを捕らえ、広場に集めた」


 「そこには1人の女性が居た。右腕に子供を抱き・・・もう1人の子は彼女の左に居た」


 「私たちは彼女らを刺し、殺した。3人全員 ―焼き串にジャガイモを刺すようにして。それはほんの1ヵ月ほど経った頃だったと思う・・・家を出てから30日後、私は何の悔恨もなく人を殺していた」


 史郎氏はこの告白に悩んだ。「京都で戦争展があった時、私は証言した。私を批判した最初の人物は東京のご婦人だった。彼女は、私が戦争で亡くなった者を傷つけていると言った」


 「彼女は3日4日絶え間なく私に電話してきた。手紙もどんどん来て、警察が警護を配備しようとしたほど攻撃は激しくなって・・・」


 これこそが証拠。それにしても、日本では最高レベルの軽減がなされている。


 元法務大臣の永野茂門は、大虐殺は行われておらず、中国の捏造であるとして抗議し、否定した。


 家永三郎教授は、日本の戦争における残虐行為を掲載した教科書を、検定に通すようにとの僅かな成果のため、長年を費やし日本政府と法廷で闘っている。


 その上、日本の一般的な人々の間でもその考えは反対されている。1995年に、中国と香港のフィルムメーカーにより『ドント・クライ・ナンキン』という映画が制作されたが、それが日本で上映されたのはその数年後である。

There is also opposition to the idea among ordinary Japanese people. A film called Don't Cry Nanjing was made by Chinese and Hong Kong film-makers in 1995 but it was several years before it was shown in Japan.*


Published: 2005/04/11 10:23:05 GMT


元記事

http://news.bbc.co.uk/go/pr/fr/-/2/hi/asia-pacific/223038.stm

*1:International safety zone

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